太宰府梅園アンテナ(梅園広報部)

写真

  • この専門家のプロフィール
  • この専門家に問い合せる
  • 有限会社梅園
  • 福岡県太宰府市宰府2丁目6-16
  • 092-922-4058

太宰府梅園アンテナ(梅園広報部)

柴田川の戦い 太宰府近郊の戦い 2015/1/25(日)

 太宰府天満宮の東方にある四王寺山には、古く『大野城(おおのじょう)』という山城が築かれましたが、戦国時代になると、この山腹には『岩屋城(いわやじょう)』という城が築かれました。竃門山城(かまどやまじょう)の端城として機能していた城です。天正6年(1578年)頃、この城には大友宗麟麾下の高橋紹運公が城督として入っていました。


 大友軍が日向の耳川で島津軍に大敗を喫した天正6年11月の翌月、古処山城の秋月種実と勝尾城の筑紫広門が、立花山城、竃門山城、岩屋城を攻めるという情報が筑前の大友勢にもたらされます。


果たして、秋月種実は高橋紹運の居城である竃門山城と岩屋城を攻めるべく、内田善兵衛、横田讃岐、上野四郎右衛門、長谷山民部ら四千人を率いて御笠郡の天山、柴田川(蘆木川)に陣を敷きました。


そこで、紹運は立花山城の立花道雪に急使を遣って後詰の手配りをし、駆けつけた道雪軍と合流して針摺峠(はりすりとうげ:今の筑紫野市針摺)へと押し出して柴田川を挟んで秋月勢と対峙しました。


 両軍は川を挟んでお互いに矢を射かけ、その後は鉄砲隊による銃撃戦となり、槍合わせなどののちに乱戦。高橋立花連合軍は数では劣りましたが、なにしろ高橋紹運も立花道雪も歴戦の猛将。立花道雪はあの武田信玄に会ってみたいと言わしめた猛者。そして、その立花道雪から認められた武将が高橋紹運です。この両名が指揮を執るわけですから強いはずです。


 勝敗はなかなかつきませんでしたが、ここで高橋立花連合軍が少しずつ後退を始めます。両将はこのまま秋月勢を太宰府の隘路に引き込み、夜陰を待って一気に押しつつみ殲滅する作戦を立てていたのです。そうとは知らない秋月種実は、「敵は崩れたぞ。一気にかかれ!」と追い討ちをかけて追撃戦に移ります。


じりじりと下がっていく高橋立花勢を追いかけていく秋月勢が二日市を越えて太宰府近くにまで来た時には、もう夕刻。旧暦の11月ですから、今の10月頃でしょうか。午後5時くらいには段々と暮れてくる頃合いです。


ここで秋月種実の家臣である問注所鑑景は「夜間に不慣れな土地で戦をするのは危険。一旦、兵を退いて休養をさせた上で明日仕切り直しとしましょう」と進言しますが、種実は「今一歩のところまで来ておきながらここで兵を退くのは相手を利する」と進言を退けます。


 これを待っていた紹運は、家臣である由布美作、小野和泉、綿貫左三兵衛、竹迫進士兵衛、成冨左衛門尉らに精鋭二千の兵をつけて埋伏させ、秋月勢を十分に隘路まで引き寄せたところで、一斉に鬨の声をあげさせて前後から挟み撃ちとして秋月勢を押し包みました。


虚を突かれた秋月勢は総崩れとなり陣を立て直す暇もなく潰走。「それ、かかれ!」と高橋立花勢が一気に猛追して追い討ちをかけます。秋月方の勇将長谷山民部ほか熊江、芥田、恵利らが奮戦して高橋立花勢の追撃を止めようとしますが、その勢いは止められず秋月勢も柴田川まで後退します。


 この時、紹運は奇策を打ち、種実が軍を立て直して陣を敷かないように偽旗作戦を行いました。二日市から針摺の辺りに馬印や旗印を何本も立てさせて、さも大友方の後詰が新手として到着したように見せかけたのです。


さすがの秋月種実も「これはまずい」ということで、自領に遁走して柴田川の戦いは高橋紹運、立花道雪ら大友勢の勝利となりました。


 なお、秋月勢が潰走する際、人家に火を放ちながら逃げていきましたので、太宰府天満宮も炎上し、神殿、楼門、回廊、末社に至るまでことごとく灰燼に帰してしまいました。時の宮司勾当坊栄重はこの非道な行いに激怒し、自分の体を燃えさかえる柱に縛りつけて炎に巻かれて絶命しました。その後、神罰を怖れた秋月種実は火を放った家臣小島玄蕃に自害させて罪を詫びたとされています。


 岩屋城へは太宰府天満宮から徒歩で行くこともできますが、観光の場合はタクシーなどで行かれるといいかも知れません。山頂付近、大野城址から見下ろす景色も絶景です。
 

 <参考文献>
 筑前國続風土記
 筑前戦国史
 九州戦国合戦記


 Photo by YAPON 
岩屋城
岩屋城

Copyright (C) chikushi-navi. All Rights Reserved.