太宰府梅園アンテナ(梅園広報部)

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太宰府梅園アンテナ(梅園広報部)

太宰府天満宮 その長い歴史を短くご紹介 2015/1/2(金)

 太宰府天満宮は、かつては『安楽寺』とも称されたそうです。これは神仏習合の名残ですが、古くから江戸幕末に至るまで神仏習合は極めて自然なことでした。


 さて、菅原道真公は藤原時平の讒言によって筑紫に左遷されましたが、菅公は日々鬱々とした日々を過ごされたようで、2年後の延喜三年二月に榎寺で薨去されてしまいました。


そこで菅公の亡骸を当時の四堂(よつどう)辺りに埋葬すべく牛車に載せて牽かせていたのですが、あるところで牛がピタリと止まってしまいました。その場所が冒頭でご紹介した安楽寺でしたので、それでは……ということで、この地を菅公の墓所にしたといわれており、その墓所こそが御神廟の場所であると筑前国続風土記には書かれています。


 ところが、都では菅公の左遷の片棒をかついだ人物が亡くなったり、地震や干ばつなどが立て続けに発生したことで、藤原氏の公達たちは「これは菅原道真の怨霊の仕業に違いない」と祟りに恐怖するようになります。


 延喜五年、味酒安行が菅公をお祀りする廟を建てたことを嚆矢として、醍醐帝の勅を受けた藤原仲平による社殿の造営、菅公に対する『天満大自在天』という号の付与など、怒れる菅公の御霊を鎮めるためにさまざまな対策がとられました。


さらに正暦元年、朝廷からこの社に『正一位太政大臣』が与えられ、いつの頃からかこの社は『天満宮』という廟号で呼ばれるようになりました。この『宮』という字は、帝の御神霊を御祀する社でしか使われていませんので、非常に稀なことです。


 時は流れて室町末期、かつては非常に栄えて広大な社領を持った天満宮でしたが、豊後大友家・薩摩島津家・肥前龍造寺家が、筑前筑後で互いに覇を競い合うような時代には、社領の多くも合戦場となり天満宮も大きく力を落としていきます。秋月種実軍の小島玄蕃による天満宮放火などもこの頃のことです。


しかし、秀吉公の九州征伐ののち、筑前を拝領した小早川隆景公は天満宮に二百余町の社領を寄進。さらに秀吉公もみずから五百石を寄進されたことで、天満宮もようやくひと息つけるようになりました。


その後、福岡藩初代藩主黒田長政公の筑前入府の際には、社領として二千石の寄進、さらに徳川将軍家からも筑後に千石を頂戴するなど手厚い保護を受けて幕末期を迎えました。明治以降はしばらく『太宰府神社』と称した時期もありましたが、戦後は元の『太宰府天満宮』に復して今に至っています。


 Photo by gtknj
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太宰府天満宮
太宰府天満宮

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