太宰府梅園アンテナ(梅園広報部)

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太宰府梅園アンテナ(梅園広報部)

延寿王院 幕末の太宰府 2014/12/27(土)

 太宰府天満宮は幕末にも大きな役割を果たしています。七卿落ちは『八月十八日の政変』としても有名です。この七卿は、はじめに長州へと落ちていったわけですが、幕府から謝罪するのであれば七卿は他藩に移すようにとの命がくだり、長州藩は七卿を他藩に移すこととしました。


 そこで、名乗りを挙げたのが福岡藩でした。当時、福岡藩は加藤司書、黒田播磨などの勤王派の重臣たちが政務を行っており、ぜひ七卿を太宰府に迎えたいとのことで周旋を行ったのです。


福岡に入った五卿(残り二卿は病死や脱走)は、最初に松屋(今も参道にあり)に滞在し、その後は太宰府天満宮の宿坊でもあった延寿王院へと入って、ここで3年間を過ごしています。当初、福岡藩主長溥公の意図としては、福岡だけで五卿を預からず他藩にも預けて分散しようと思われていたようですが、加藤司書の必死の嘆願によって五卿を太宰府に迎えることに成功しています。


 これによって、太宰府は勤王活動の震源地となり、多くの志士たちがこの地を訪れるようになりました。卿たちも普段は歌を詠むなどしていたようですが、長崎からひそかにゲベール銃や元込め式の6連発銃なども取り寄せ、宝満山麓の豆塚山で射撃の稽古をしたり、延寿王院庭の馬場で馬術の稽古をするなど、来るべき日のために活発に活動していたようです。


 多くの勤王家が太宰府を中心として活発に動き出す事態となれば、幕府も黙って見過ごすわけにはいきません。幕府は、大目付小林惇六郎を福岡に派遣して五卿を江戸に連れ戻すことにしました。大目付は藩主黒田長溥公に親書を手交し、幕府の意思を示したことで、加藤司書は家老職を辞して蟄居となってしまいます。


 大目付一行は福岡表から二日市へと移動してここに滞在。なんとか五卿に接触しようとしますが、五卿の警護にあたっていた久留米藩、佐賀藩、熊本藩、薩摩藩、福岡藩の勤王派の藩士たちは「五卿に指一本でも触れればただではおかない」と殺気立ち太宰府周辺は騒然とした状況となります。


なかでも薩摩藩の大山格之助は36名の砲兵と3門の大砲を率いて太宰府に押し寄せ、空砲を二日市の大目付陣営に撃ち放って威嚇。そのあと、大目付の宿を訪ねて「三条公以下の太宰府滞在は将軍の命によって尾張総督が決定したことである。将軍の命なく大目付の分際で五卿を連れていこうとするのは不埒なことである。また、もし将軍の命であっても五卿は絶対に引き渡さぬ。奪うものなら奪ってみよ。この3門の砲で打ち破ってみせよう」と談判に及びました。


大目付は「では面会くらいはよかろう」と態度を軟化させて五卿に会いましたが、その周辺には鯉口を切った勤王派の志士たちが目を釣り上げて控えていましたので、さすがに幕府の大目付といえども、どうすることもできずに五卿の江戸行きはなくなりました。


 その後、乙丑の獄で加藤司書が切腹を命じられた時、五卿は司書の助命嘆願のために土方楠左衛門を早馬として博多の天福寺に飛ばしましたが、土方が到着した時にはすでに司書の切腹は終わっており、五卿もひどく落胆されたと言われています。


 王政復古がなって五卿は京に帰還となりましたが、太宰府で過ごした3年の間、日本は大きな転換期を迎えたわけです。延寿王院はいまも参道の突き当たりに当時の面影を残しています。


 ※鳥居の奥に見えるのが延寿王院の門

 Photo by imp98
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延寿王院
延寿王院

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